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  • 2018.6.26

『君子懐徳』
天神南木鶏塾勉強会100回記念誌に投稿したレポートより。


『君子懐徳』  有江勝利

●歴史小説

「立派な人間は、徳を修め磨くことを心掛ける。」
さて、徳とはなんでしょう。
どうやって修め磨くのでしょうか。


会社では厳しい業績管理や人間関係に悩まされ、立派なキャリアを持たれている方ですらもパワハラやセクハラで騒がれ、少子高齢化や医療・介護給付の高騰化等沢山の国内問題にどう対峙していくのか、国外でも近隣諸国との打算や駆け引きに悩まされる日本、私達は、実に爽やかでないものに包囲されているのが現実です。

私は、2017年1月1日よりの1年間、習慣の日経新聞を読むことをやめました。
温故知新を潜在的に感じた行動だったのかもしれません。
激動期の日本を生きた人物を題材にした歴史小説を読む時間に変えたのです。

日本の激動期、応仁の乱から始まった戦国の時代、近代化に向かうことにもなる明治維新の時代、
そして1940年代の第二次世界大戦の時代です。
通勤時や出張時の交通機関内が中心での読書ですので1、2週間に1冊程度のペースでした。

読み始めは関鉄之助、中島三郎助、南雲忠一を題材にしたものです。
縁起はよくありませんが劣勢、敗色が日に日に顕著になる中で最後まで戦った、戦わざるを得なかった人の生き様を題材にした歴史小説です。


関鉄之助は井伊直弼を桜田門で暗殺した際の現場指揮を行った水戸藩士です。
暗殺現場での目的は達成できましたが、その後幕府に追われ約1年逃走を続け最後は捕まって日本橋小伝馬町の牢において斬首されました。
39歳でした。
将来の日本の為を思い思い切った行動を行いましたが悲惨な最期を遂げました。

中島三郎助は江戸幕府海軍軍人です。
若い時から仕事ができる人で、ペリー来航時には応対役を務めました。
黒船最新技術の搭載砲や蒸気機関の調査等好奇心も成長意欲も旺盛でした。
技術や文化そして義を重んじるような方のようで、運命に逆らわず生い立った環境の中で忠実に生きました。
最後は五稜郭で長男、次男と共に殉職です。
49歳でした。

そして南雲忠一。
1941年12月の開戦以降装備、技量に勝る日本は太平洋の制空海権を確立しました。
しかしその半年後のミッドウェー海戦の大敗で戦局は大きく変わり以降、南太平洋での激戦、苦戦が続きます。
絶望の意識はいつ頃からなのでしょうか。
戦いを終わらせる術はなく、サイパンで最後を遂げます。
57歳でした。

日に日に追い込まれる中で、この苦境をどう好転させるか、戸惑い、諦め感、気持ちの浮き沈みも大きな中で、しかしいずれの方々も最後の最後まで毅然とした様子で、そして潔い姿で描かれてます。


坂本龍馬はあまりにも有名な人です。
今日の日本を創った英雄とも言えます。
「江戸時代から明治時代の変わり目に、とても大きな業績を残したすごい人物です。
数多くのエピソードが残されている事からも、今でも多くの人に人気がある人物です!」というのは彼に対するネット上での紹介の一部です。
歴代日本の有数のイノベータとも言えるのではないでしょうか。
では皆さん、坂本龍馬になりたいと思いますか?最後はどんな死に方をしたのかご存知ですよね。


●男猫が子を産む

歴史小説読後感をもう少し続けます。

武田信玄は文学に親しんでいたそうです。
儒学が盛んだった当時、唐、宋、名家の詩文集に親しんだそうです。
徳川家康は、吾妻鏡を愛読し、源頼朝を理想の人物として研究したそうです。
吾妻鏡(あずまかがみ)とは、鎌倉時代に成立した日本の歴史書で鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績の編年体書物とのことです。
歴史上の偉人達もその以前の歴史書物で研鑽されているところは、今も昔も変わらないようです。
まさに温故知新です。
しかしながら異端児の織田信長、私の読んだ「覇王の夢」では兵法、儒学等一切の読書(勉強)をせずに我流の人でした。
その我流で、毛利水軍を破った鉄の船、桶狭間の奇襲、長篠の三段構え等を実現します。
まさに常識を破る人です。
歴史書からヒントを得るような発想はありません。
むしろ兵法含めた歴史書は常識の殻を破るような発想の邪魔に思えたのかもしれませんね。
男猫に子を産ませるような命令があっても不思議ではないですね。


「真説・阿部一族」も後味悪いものでしたが、人間社会の変わらない黒い性質を表した歴史小説と思います。
森鴎外の作品にも「阿部一族」があります。
阿部一族の事件に係わった藩士などの証言を元にした「阿部茶事談」を参考にしたとのことですが、升本喜年さんが研究を行ったところ史実と違うところ多々とのことで「真説」をタイトルに加え新しく執筆されました。


時代は江戸時代初期、肥後熊本藩主は細川忠利の時代です。
現場主義、実力主義の忠利は実行力そして成果に拘る重職の阿部弥一右衛門を重宝します。
晩年、自身亡き後も藩の為に尽くすことを切に願いますが、忠利死後結局弥一右衛門は不本意ながら殉死します。
最初は忠利の意向に沿い藩に尽くすつもりでしたが(「早く切腹しろ!」「意気地なし!」)空気に逆らえませんでした。
その空気は、弥一右衛門の重宝に嫉妬していた重鎮含めた人々の嫌がらせにより日に日に見えるものになっていき、これに包囲され最後は屈したということです。


以後、それぞれ次の世代に移ります。
側近偏重主義の細川光尚は林外記を重宝しました。
外記もこれを利用し確固たる地位を築きます。
この外記と意見がぶつかっていたのが阿部弥一右衛門の嫡男権兵衛です。
外記は邪魔者の権兵衛含めた阿部一族を、自分の立場を利用して誅伐します。
皆殺しです。
邪魔者を抹消したいとする気持ちは、強弱の違いはあるにしても、持っている人は少なくないのではないでしょうか。
これを実行に移す時代でした。
しかしその光尚に重宝されていた外記は、光尚亡き後の細川綱利の時代に代わると逆に邪魔者扱いされ、阿部一族を討ち果たした時と同じように今度は自分が討ち果たされます。
爽やかでない事件の繰り返しですが現代にも繋がっています。
トップの不幸や失脚により、さすがに殉死まではありませんが側近が去っていく話は珍しくありません。
嫉妬や妬み、いじめにパワハラ、うんざりするような空気に覆われる中で、ストレスに負けてしまう事件も多くあります。


●家康、江戸を建てる

最後のご紹介は「家康、江戸を建てる」です。
徳川家康はすごい人です。
1590年北条の小田原落城により関東江戸に移封になります。
家康49歳から江戸作りに入ります。
その頃の江戸はほとんどが水びたしの低湿地、これを見た家康は「あの山と、あの山をきりくずして埋め立てれば地ならしはなる」、重機のない時代ながらなんとも前向きで壮大です。


家康は当時の土木技術と数千人の労働力により川の流れを制御、川の流れを変えることで湿地帯から豊かな土地に変えていきます。
陣頭指揮は伊奈忠次、家康自らの任命です。
江戸幕府の時代では生産よりも流通に社会の価値が移っていきます。
川の制御は運河の整備にも繋がっていきます。
新田開発と米塩等の流通インフラです。


家康の江戸づくりはいくつかのテーマを並行します。
2つめのテーマは貨幣です。
大判・小判の作成工場を日本橋に作ります。
現在そこには日本銀行の本店があります。
貨幣工場をつくり貨幣経済をつくります。
後藤正三郎がその任に付きます。
家康の人への目利きそして、存分に仕事に熱中できる環境作りに雰囲気作り、適時のフォローアップも抜群です。


きりがないのでこれを最後にしますが、3つめのテーマは水道です。
江戸の民々にいつでも水を飲ませたいと、菓子作りの名人大久保藤五郎にその任を与えます。
菓子作りにはよい水がいる、水の味分けの舌を民政に用いてほしいという背景のようです。
泥湿地さらに海が近い江戸では良質な地下水は得難いということで、清水のわきどころを捜すところから始まります。
そしてそこから水を引くわけですが水は高いところから低い方にしか流れません。
台地の上にどうやって水を通すのか当時の工法もまさに芸術です。
水道管は松や檜の腐りにくい木の板です。
この板管をのこぎり刃のように下がっては上り、下がっては上るような構造で道の下に埋めます。
水も下がっては上り下がっては上り、水の流れと水圧で台地の上へも水が引けるということです。
世界一安心な日本の水道は、このように家康によりできたことを私は理解しました。


家康の関東における社会インフラづくりは1590年から始まりました。
ここに紹介したでけでも新田開発、運河の開発、貨幣経済に水道インフラがあります。
適材適所の人材を文官として起用し、職務を全うさせるために抜群のタイミングでフォローを行います。
そしてさらに驚くのは1600年の関ヶ原の準備から、そしてその後の統一をしっかり成し遂げることと並行して行っているということです。
リーダーシップの極めだと感じました。


軍事力の優劣だけでは真の統一は成しえません。
知育、徳育、体育(健康)、そして胆力、運にリーダーシップ、調和のとれていたのはやはり徳川家康だと思います。
関ヶ原での勝負がついた後始末の最中、後藤庄三郎は家康を頼ってその本陣を訪ねます。
天下分け目の戦いを制したばかりの家康は首実検の最中でした。
庄三郎をみた家康は、すぐさま京に行き貨幣制度の告知を指示します。
商人はこれまで通り安んじて商いに励むべし。
実質の戦争が終わったすぐさま今度は経済環境の統一を指示するわけです。
首実検の最中にここまで先を見た家康のすごさを感じます。




●海外の勢いを国内に
2018年に入り、私の通勤時間は日経新聞を読む時間に戻しました。
1面、総合面、企業面、九州経済面等読む順番は変わりません。
客先会話の話題も尽きない内容です。
さて、1年間の歴史小説読書は私の生活にどう影響与えたのでしょうか。
リーダーシップに関するヒントには繋がったような気がします。
こんな人にはなりたくないと、反面的な人物像の確認もありました。
立派な人間になるためには知育、徳育、体育を磨くことを心がける必要があることを改めて認識する機会でもありました。
知育は現代流のテクニックに学びます。
徳育はやはり歴史書そして致知、木鶏クラブに学びます。
体育はもっぱらヘルスケアに学びます。
生活習慣改善です。
保健のための自己管理、職域管理、家族管理そしてこれの伝道師(ビジネス)活動に務めます。

今この原稿を歩き読みチェックしながら博多駅構内に入ったところです。
6月初旬の土曜日お昼前です。
若い人から年配の人々、休日の午前ともあって沢山の往来で賑わってます。
そんな活気に何となく私も楽しくなってきます。
ここ数年で随分変わったことがあります。
外国人訪問者の多さです。
先日ある会合で福岡市内のシティホテルの総支配人の方と隣同士になった際伺ったのですが、ここ数年約10%の割合で外国人宿泊者が増加しており、今では約4割の宿泊者が外国人になってるそうです。
観光庁の宿泊旅行調査におきましても2016年のデータですが、福岡県のホテルの客室の稼働率は70.9%(全国3位)で、延べ宿泊者数は1,612万人(前年比▲0.1%)ながら、外国人旅行者は267万人(全体の17%、前年比13.2%)だそうです。
また厚労省職業安定局統計によりますと、外国人労働者総数も100万人超えておりここ5年で約6割増加しています。
この傾向は少なくとも2020年までは続くのではないでしょうか。
戦国の時代、明治維新の時代、そして第二次世界大戦の時代、この日本の激動期はいずれも外国との付き合い方に関する論争も1つの争点だったと思います。
今日においては、訪問者そして労働者ともに増加の一途をたどっているわけですが攘夷なんて発想はもちろんありません。
今後は、日本らしさの徳をしっかり見つめなおし、海外からの訪問者、労働者との共生を積極的に活かしていく必要があると考える今日この頃です。

ところで2017年の歴史の学びでは、明智光秀は実は豊臣秀吉に匿われ千利休になった説や、豊臣秀頼は石田三成の子だった説、いろんな雑学も得ました。
どこで使いましょうかね。


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